ルーツをたずねて

”白さぎのルーツ”である「おやさぎ伊豆丸鷺洲先生」について、伊豆丸 先生から直接薫陶を受けた子鷺孫鷺の先生に”おやさぎ”の思い出を語っていただいて「鷺のルーツをたずねて」みました。


平成10年5月9日場所大阪市福島区海老江6丁目 海老江西コミュニティセンター

出席者顧問松尾鷺恵副会長西村鷺恍副会長・総務局長西森鷺森副会長安田鷺迪総務局次長北田鷺仰
聞き手
司会伊東鷺伸編集委員石垣水恵・松尾佳恵・森捷孝・松本哉孝

伊豆丸鷺洲先生の思い出

司会
本日は松尾鷺恵先生をはじめ、白鷺連合会の幹部役員の4名の先生方にお集まりいただきまして、恩師伊豆丸鷺洲先生の思い出を存分に語っていただきたいと存じます。
まず初めに松尾先生から伊豆丸鷺洲先生との出会いからお話願えますか。

松尾
そもそもは、私の家の近くの八坂神社で伊豆丸先生が最初のお稽古場を開きはったんです。
その時にお友達の中村さんに誘われて、また母からも勧められてお稽古場へのぞきに行ったんです。
伊豆丸先生が担当講師で、西野宮司(現在の宮司の祖父さん)が 支部長でした。私が18才ぐらいのときですわ。 (昭和11年 頃…?)

司会
伊豆丸先生は誰の門下生だったのですか。

松尾
当時は本部宋師範が真子西洲先生、師範が盛川鳴洲先生で、その門下生が伊豆丸鷺洲先生、師範代ぐらいやったと思います。

西村
そしたら伊豆丸先生は真子先生から直接習われたのではないのですか。

松尾
いいえ、直接習ってはります。私も本部で真子先生から習いました。

司会
伊豆丸先生の“さぎす支部”の練習場はどんなところでしたか。

松尾
戦後、八坂さんから海老江の小学校の裏の海老江会館へ移りました。
地域の公民館みたいな処で、狭い階段を上がった2階が練習場でした。
細長い畳敷きのお部屋に長机が向かい合わせて5つずつ並んでいました。
その正面の議長席が伊豆丸先生のお席でした。
先生の後に一段高い壇があって、小さな演台がありました。
そこで私ら独吟をするんです。

司会
その頃(昭和32年頃)のさぎす支部はどんな顔ぶれでしたか。

松尾
伊豆丸先生から向かって左側に、塩谷鷺声先生、吉村鷺紅先生、私、井上鷺孝先生、右側には土居鷺行先生、寺島鷺狂先生、田中鷺翠先生、原田鷺親先生らが座ってはりました。
後ろの方には若手の佐々木鷺郷さん、平田鷺摂さん、それに伊東鷺伸さんも関大を卒業してからしばらく来てはりましたなあ。
講習は本部教本のほかに矢桜兜の絵入りの教本や伊豆丸先生手作りのガリ版刷のもので教えてもらいました。

司会
伊豆丸先生の教え方はどんな様子でしたか。

松尾
練習のときは意解、吟法をきちんと説明され、“お取り次ぎ”と言ってはりました。
個人練習のときは独吟を聞いても、直しはったことはおませんでした。
やあ結構です、よかったですよといつも誉めておられました。

西村
私も昭和33年頃、海老江会館へ平田鷺摂さんに連れられて行きました。
今から思えば大先生ばかりの練習場だったんですね。
ある時伊豆丸先生がガリ刷の講習で「天神祭」の詩吟を取り次がれまして2行目の山を大中山でやられました。
1節ずつの練習は塩谷先生がしはりました。
昨年習ったときは確か中山やったように思いましたので、帰りに塩谷先生に質問しました。
そしたら、「昨年と違うなんて言えるかいな、中山であろうが、大中山であろうが、伊豆丸先生がやりはった通り取り次ぐのが弟子の努や・・・」とおっしゃいました。
今の弟子とはえらい違いや。(笑)

司会
白鷺連合会の前身である“白鷺吟詠会”はいつ頃できたのですか。

松尾
昭和36年頃ですね。
伊豆丸先生としては自分の門下の親睦と、統合のために白鷺吟詠会を作りはりました。
本部会長宮崎東明先生にも認めてもらわれて、どこかで発会式をやりましたなあ・・・。

西森
たしか、発会の為の会合が奈良のあやめ池の近くであったように思います。
そこで伊豆丸先生が「この会は私の会ではなくて、私の門下の支部の和をはかるための会です。
各支部のみなさんが“和をもって”集まってほしいと願っています。
だから私の名前を使った鷺洲会でなくて、白鷺吟詠会と言う名前をつけました」という旨説明をされたのを末席で聞いた記憶があります。

安田
白鷺吟詠会結成以前から伊豆丸門下は仲がよくて、いろんな行事をやっていました。
その中でも3段以上の高段者大会があって、長詩の吟詠大会をやっていました。
僕らは高段者大会にでるのが夢でした。

司会
初代会長を努められた塩谷鷺声先生は、平成9年9月に亡くなられました。
北田鷺仰先生はこのたび鷺声吟詠会の会長に就任されたのですが塩谷先生から伊豆丸先生のお話を聞かれましたか。

北田
塩谷先生は伊豆丸先生の門下生1号で、鷺号も第1号だったそうです。
塩谷先生のご自宅の練習場には宮崎東明先生と伊豆丸鷺洲先生のお写真が掲げられていました。
とくに伊豆丸先生を直接の恩師として心の底から尊敬しておられました。

司会
自分の恩師を大切にする心、感謝の気持ちを持って吟詩活動をすることのお手本を示しておられたのですね。
ところで、鷺声吟詠会の皆さんの声号はいつから出しておられましたか。

北田
伊豆丸先生が昭和42年に亡くなられて、今後「鷺号」は出さないと塩谷先生が一門を代表して決められました。
その後、声号を出すようになったのです。
私個人の思い出として、伊豆丸先生に直接習う為に“さぎす支部”の練習場に行ったことがあります。
私が大阪府連の競吟大会に出る前日でして、「北田君、もうあんまり練習したらあかんで。何事も無理しないように」とアドバイスを受けたことを今でもうれしい出します。

司会
松尾先生にお聞きしますが、伊豆丸先生の吟の魅力とはどんなものでしたか。

松尾
伊豆丸先生の吟は、淡々とした吟で飽きることのない良い吟風でした。
節はあっさりして、あまり小節を多くつけられませんでしたね。
大山やったら大山を、中山やったらちゃんと中山をやりはりました。
八木哲洲先生の吟とは一味ちがいましてん。

西村
以前に真子先生と八木先生のレコードを聞きましたけど、伊豆丸先生の吟は真子先生の吟と似ていると思いました。

西森
この間この出版物の取材で広島へ行ったとき、伊豆丸先生の話になりまして、「先生の吟はパッと目立つわけではないけれども、いつも淡々とした吟でした。
大会で他の人が張り切って失敗することがあっても、伊豆丸先生は大きな大会になればなるほどいつもと変わらぬ淡々とした吟で目立つ存在でした」と広島の先生方も語っておられました。

司会
八木先生が辛党で、伊豆丸先生が甘党だったそうですが・・・。

松尾
甘いものが好きでしたね。おぜんざいとかお饅頭とか。
お酒やビールは乾杯のときに口をつけるだけで、飲みはったところは見たことがありません。

司会
お食事はどんなものがお好きでしたか。

松尾
あんまり好き嫌いはなく、何でも感謝していただいておられました。
第一回の文部大臣杯を私が獲得したとき、先生は大変喜んで下さってどこかの百貨店で食事をごちそうしてくれはりました。
その時はたしか丼物でしたよ。

安田
伊豆丸先生は天理教を信仰しておられましたから、酒や女や贅沢な話は全くありませんでした。
そしていつも詰襟の制服をきちんと着て大会には行っておられました。
神に仕える生活と言うのでしょうか。

司会
現在の西淀川支部と伊豆丸先生とのご縁はどんなところからですか。

西村
私は平田鷺摂さんに連れられて、“さぎす支部”へ2年間ほど通いました。
そこで、塩谷、吉村、松尾、井上先生達を知りました。
その後、平田さん、安田さんら地元の青年団の仲間が中心になって西淀川区柏里に詩吟教室を開くことになりました。
昭和33年のことです。
それが現在の西淀川支部です。
初練習のときは、伊豆丸先生が野田阪神から野里まで阪神の路面電車にのって来て下さいました。
私達は野里の交差点まで出迎えに行って、会場の児童会館へご案内しました。
その時の伊豆丸先生の歩くスピードはわかい私達よりも速かったことを憶えています。
なんと足の速い先生やなあと驚きました。

司会
安田先生が個人的に伊豆丸先生と出会われたときのことを聞かせて下さい。

安田
西淀川に教室を開設するとき、伊豆丸先生は松尾先生、吉村先生を連れて一緒にこられました。
その時が初対面でした。私は青年団の役員をやっていた関係で、走り使いをしていましたから直接伊豆丸先生とお話をするような立場ではありませんでした。

司会
しかし、直接伊豆丸先生から吟の指導を受けられたのでしょう。

安田
西淀川へは月に1回、伊豆丸先生に講習に来ていただいていましから、その時指導を受けました。
平田先生も当時はまだ2段ぐらいの頃でした。

司会
西森先生にお聞きしますが、伊豆丸先生は若い学生さんがお好きでしたね。
関西大学吟詩部のOBとしてどんな思い出がありますか。

西森
親しみやすい“おじいちゃん”の一言でしょうね。
先生はすでに70代、私達は20代前半の大学生でしたから、年齢的にも良き“おじいちゃん”でした。
吟詩部の練習は正午から1時までの昼休み1時間に限られていました。
伊豆丸先生は毎週水曜日にきちんと来られました。
それも正午前には時間励行で教室へ入り学生が来るのを待っておられました。
学生の方でも昼食を食べてから教室へ行ったのでは遅くなりますので、水曜日はいつも昼食抜きで練習場へかけつけたものです。
その代わり練習がおわったら1時からの授業はさぼって食堂へ直行しました。若いもんは腹がへっては、授業どころか・・・。(笑い)

司会
西村先生が退席されますので、もう一言、思い出をお願いします。

西村
昭和38年11月、伊豆丸先生の喜寿のお祝いをする大会が、大阪市内の福島小学校で開かれました。この大会は先生はものすごく喜ばれましてね、喜寿の記念に伊豆丸先生ご夫妻に「高砂の翁と嫗」の衣装を着てもらい、熊手と竹箒を持ってもらって写真を撮りました。
今でもその写真はのこっています。
それともう一つ、安田先生と二人で岸和田支部の発会式に行ったとき、ある先輩が伊豆丸先生から一度離れて他の先生のところへ行ってまた伊豆丸先生のそばがええと言って戻って来られたことがありました。
伊豆丸先生は「去るものは追わず、来るものは拒まず」と、おっしゃった言葉が印象的でした。
だから、西淀川支部でトラブルがあったき、いつもその例を出して伊豆丸先生のお言葉を話しています。

司会
予定時間となりましたので、最後に伊豆丸先生は自分にとってどんな先生だったかをお一人お一人にお聞きします。

松尾
わたしにとっては本当にいい先生でした。
伊豆丸先生の門下であったことに、今でもなお誇りを持っています。
伊豆丸先生が吟詩のために尽くされた崇高な精神は今もなお偉大な力として子鷺、孫鷺の心の中に残っていると信じています。

西森
伊豆丸先生の「吟詩報国」という精神が強烈に残っています。いわゆる社会に対して吟詩でご奉公するという先生の強い信念が、今も脳裏に焼きついています。
吟詩を学ぶことによって自らの人格を磨き、吟詩を取り次ぐことによって人と人の和を計っていく。
こういう吟詩観は伊豆丸先独特のものでしょう。

安田
伊豆丸先生は天理教の信仰をしておられたこともありますが、我々凡人にとって普通のことが、先生にとっては普通のことではなくて、神の世界に住んでおられたように思いました。
以前には近江神宮で西淀川支部と名古屋支部の交歓会をを行ったとき、宮司さんから「伊豆丸先生の白いお髭が真直ぐに伸びているのは、心が真直ぐなので、神様に近い存在である。私は遠く及びません。」と、お誉めいただいて先生のご機嫌が大変良くなったことを思い出しました。

北田
伊豆丸先生は宮崎東明会長(当時)を大変尊敬しておられて、大阪府連愛国詩吟総連盟、日本吟詠総連盟、全吟クラブなど関西吟詩の渉外活動を宮崎東明会長の代理として東奔西走しておられるお姿を拝見して感心しておりました。
また伊豆丸先生はお金に損得・利害を求めないで、清貧とも言える暮らしをしておられましたことにも感心しておりました。
私達の恩師は何と素晴らしい先生なのだろうかと思っておりました。

松尾
最後にもうひとこと。
私は詩吟をやっている限り、伊豆丸先生のことは忘れません。
しかし、伊豆丸先生のことを知らない若い指導者の皆さんには、この本をよく読んでもらって、伊豆丸先生の全てを知ってもらいたいと思います。
そして、常に【中庸】の道を歩かれた伊豆丸先生、関西吟詩のもめごとを常に丸く収めておられた伊豆丸先生のことも若い人達に語り継いでもらいたいと思います。

司会
本日はどうもありがとうございました。
伊豆丸先生の思い出話を沢山していただきましたが、頁数の関係で全てを掲載することは出来ないと思います。
要約したものにまとめたいと考えます。
私達は伊豆丸鷺洲先生の門下であることに誇りを持ち、恩師の歩まれ吟の道をさらに21世紀になっても真直ぐに歩いて行きたいと思います。
白鷺連合会としても、和と奉仕の精神を標榜して、会員同志仲良く楽しく吟の道を歩き続けましょう。
これをもちまして、本日の座談会を終ります。
ありがとうございました。